天真名井家文書

金光月影抄(断片集)

断片-1

築紫国筑前松野の庄、太刀洗の里に、太宰府判官長安寺国平殿を父とし、平小路良禰式部を母として、久寿甲戌元年正月元日子の刻に、金光上人世に御誕生し給へける。

白龍丸と號し、玉の如き御児也。此年五月十八日突如として筑後竹野の庄、石垣に清和源氏ゆかりの一族、当道朝臣及麿は源義朝の内令を受け、平氏にゆかりある長安寺国平を討つべく兵を挙し、筑後川を越えて侵襲せり。すわっ大事と應戦に当れども戦勢、長安寺軍に利なく舘は炎上し、平小路良禰の方は自刃せり。国平□□城を枕に討死を決

(※以下断裂)

断片-2

丸を楠の根に寝かせ、陣太刀を腰に及麿を襲はんとするに、天上にわかに曇り雨どしゃ降りぬ。時に楠の根方に寝かせし白龍丸、にわかに泣叫す。

重太夫、心あせれども敵中に身を動ぜしむを得られず、白龍丸は眼のあたりにて奪はれたり。当道及麿、此の日、子授けの満願日にして白龍丸の授かる大好運を悦び、現若丸と名付けて育て給へき。現若丸、幼少七才にして石垣山観音寺精覚律師及び河内權藏孝臣に学びて秀才たり。然るに、現若丸、生長して十才を越えにし折より、心身共に武術に長じ、石垣の鬼童と世人に稱されぬ。

嘉應己丑元年、石垣境内に関重太夫、法名龍眼和尚に戒しめられ再度学文に精魂し、秀才となりぬ。承安辛卯の元年八月二日、長安寺國平、高千穗に兵を起して当道及麿殿を攻むる時に、現若丸は初陣として寄せ来る敵中に戦ふ。然るに因果なりや、父子とも相知るよしも無く、長

(※以下断裂)

断片-3

安寺国平は現若丸に奇愚し、一騎の勝負を名乗りて戦闘せば、老巧の武練に石砕の如き現若丸の武術も破れて落馬しけるに、長安寺国平、現若丸の帯にし陣太刀を見覚ひ、関重太夫が戦の和交をならしめんと両陣に申出たる意義を察し、現若丸こと吾が子と覚り武誉を授けんは吾が命なり、として首討を待ち、坐せる現若丸に再度の勝負を請ひて自ら白龍丸と叫び、現若丸の陣太刀に討れり。

(※以下断裂)

断片-4

□□関重太夫が訊ね、事の眞相を聞きて悲し□□。重太夫は国平の臣、緒方三郎に捕はれて殺さる。時は同月十□□□□

(※以下断裂)

断片-5

十二月二日、現若丸の養母・方子の方急死。相續きて現若丸、世の無常を心身に惱みて佛家に志し、養父及麿に哀願して京師に出でて三井寺に剃髪す。

金光月影抄 求道□□
逑者、念西
西念謹書
應永元年三月五日