東日流展鉢抄ほか/金光上人著述

東日流展鉢抄

正中山に笹鳴りのこち吹かば、法華経の題目を渓に度して啼く鶯の聲ものどかなり。山吹の花も香ぐはしく、老木天を幽閉せる處に三寳奉請せる佛法僧鳥の聲聞かば、峯の風渓の瀬音もみなながら、南無阿弥陀佛の聲と姿と笙歌はるかに聖象來迎の感に合掌する、木の實草根を展鉢の𩞯として漂泊の旅に身をさすらへ、幻のちまたを草木の陰に仮寝し、委風寒暑日々旅にして旅を住みかとす。

今は國の果なる東日流の山里に、我が一期の月影も西の端に近し。正中山は霊峯希にみる法場なり。山頂に一宇の草堂あり、修験宗役小角仙人の梵場寺これなり。山水木立閑寂由あるさま繪に書くとも筆に及びがたし。人跡不斧の連峯、白雪に浮きくる人まれなる處なり。薪木を取り、水を汲みてこの山にこもり今すでに三歳を経たり。仮の庵も、人の家に一宿を乞ふよりは心ひもじからず。憂へなきを樂しみとす。

阿波之介殿、我を訊ね來たりてことのたより都を聞けば、師の往生し給へきを聞きて涙こぼる。うつせみの世を念佛にちぎりて師を離れてみちのくに駐まりたる金光が、念佛を布せどもまめならず。あたら時を過ぐさむは何の報いぞ、心淨かに師の書狀に灯を寄せて讀むも、涙先にて目に書面も曇りけるなり。

唐土我が朝に諸の智者達のさたし申さるゝ觀念の念にも非ず。亦学文をして念の心を悟りて申念佛にも非ず。唯往生極樂の為には南無阿彌陀佛に念佛を申耳にて一毛の疑ひなく、往生するぞと覚へ取りて申外に別の子細候はず。能く信心すべし。但し三心四修と申事の候は、皆決定して南無阿弥陀佛にて往生するぞと思う心にこもり候なり。此外に奥義を欲し諸行に冒頭するあらば二尊のあはれみにはづれ、本願にも漏れ候べし。念佛を信ぜん人はたとい一代の法を能々学す共、一文不知の愚鈍の身になして尼入道の無知のともがらに同じて智者の振舞をせずして、唯一向に念佛すべし。

金光よ、源空が一期の眼舌西方に黄泉をちぎる前に此の安心起行の文を滅後の為に遺し置き候。みちのくの展鉢はほどほどにして急ぎ帰られよ。汝の代りとしては若き勢觀房志しあり。みちのくは捨てつるに非ず。死出の前なる我が遺言なり。
金光よ、我が滅後の吾を繼がずして眞の淨土宗はありまずく候。忘れめや金光殿、汝無くて誰ぞ淨土の池に咲かせん九品の蓮華。汝は吾れに在りては支那越王の臣范蠡の如し。老令重ぬるまずに我が命脈在り、無きにしても思ひ惑はず帰られよ。
千秋の思ひにて待はび候ぞ。吾が死は近し、今は勝尾の庵に正念し病軽からず、枕辺に來迎の三尊おはします。中尊の御手には信空坊が吾れを案ぜしめ、五色の糸を掛け吾が手に握ぎる庵の内に、八軸の妙文・九帖の御疏も置かれしが、吾れは一同に念佛を所望するのみにて候。金光殿、然りとぞ賴申して筆を留め候也。

師の筆跡に涙なほこぼる。
御覧ずれば阿波之介も亦涙なり。夜を通し語り明して別れし阿波之介も旅人なり。平泉中尊寺にて死せるは我が為かとぞ思ば、周利槃特が行ひにも及ばざる我が行を今更に苦しきに心濁りしめり、東日流に駐りて草庵を愛しひとりをれば、都に思ひ走るも翼なき身に涙亦涙なり。

(※以下断裂)

露玉

御眞書㝍し

永仁元年三月二十六日
藤本弥兵衛花押

生々流轉の人生少かに五十年。
知らず生れ、死ぬる人の生涯は流れのよどみに浮ぶ水のあわにぞ似たりける。老骨の消えがたに志して九帖の御疏を奉じてみちのく巡脚展鉢を未だに思ひ、駐まらず旅にさすらへ路無きを越え山野に草木を仮寝の宿りを常とす。佛の教へたまふ趣は心を修めて道を行はむと雖ども、漂泊の労苦多ければ讀經もまめならず、戒を何につけてか破らむ事暫々なれど詮なし。

背に負へる源空三礼刻作の御像もさほど重からねども、閑寂にけはしきを登りては汗ばめり。弥陀の本願なる成等正覚を、易しき念佛を用いて教へを北夷に寄せて幾歳を經し、一期の月影余算の端に近し。うつせみの世を巡脚に労し、死出の山路をちぎるはたが為ぞ、無常の吾が身を襲ふは水火の攻むよりも速かなり。僧なればこそいはゆるを覚りて、此の身のありさま伴なふべき人も無きに、三寸の舌根をやとひて念佛乃至十念を申してやみぬ。都をのがれみづから奥州に歩を廻らすは、風の前の塵に等しき夷人の心に安心立命の道を教へむ他に餘心も無く、今旣に國末の東日流に草堂を結びて三年を經たり。

仮のいほりも軒に朽ち、冬のつらら粉雪の舞込む閑居なり。ともし火もなく、夏に至りて、のみ・蚊にせせらるに寂々たる夜も眠られず。朝拝の念佛もみづから休み、みづから怠るとも恥らふ人も無し。念佛申して展鉢を廻らせど、童達の笑種となり粒ひとつの布施も無き事暫々なり。

〽六尺三寸四十貫
人の三倍力持て
人より三倍学びあり
阿呆にはなかろに物乞て
朝から晩迄阿弥陀佛
しらみ衣の金光房

誰ぞ作りしか吾れをはやして歌ふ童の無邪心よ。
歌へけれその中にぞ一念の念佛あり。おのづからやむごとなき童達の、穏れたまへけるもまた聞ゆに吾れは満足なり。東日流にては念佛を布しとも、まめならず。召せども應ずる者無し。

國末の境界なれば、更に進むはなけれども、東日流布教の途に吾れ枯るゝか。正中山の肩に旭日を拝し、巌鬼山の峯に暮れゆける夕日を眺めつゝ住みはじめし時は、この地ぞ吾が臨終正念の骨埋む處ぞとは思取り難く、暮しうち今この地を愛しは吾れ周利槃特が行ひだに及ばざるを覚りて、今更に京師を恋ふて歸る心にもならず。夷人に吾が命脈を一期にかけにして眞心の吾が教へは是つたなけれども、日毎に求む念佛の信者數少なしとも捨て難く、仮のいほりも夜ふす床あり、昼ねる座あり、一身を宿すに不足なし。師の僧・源空に授かる弥陀の像あり。飛鳥川に拾ひし弥陀像、吾が庵にありて眠りては笙歌はるか正中山の峯に聞ゆが如き、木立の風と水のせせらぐ流れに聖衆來迎す正念の道場と、夢に慰むらるゝなり。

貧賤の郷に入りては、おのづからそれに習へて衆に布し、念佛も冬は雪の積り、春は消ゆるままに今は妨ぐる人も無く、石化山大光院の仙僧等及び荒吐一族・津刈一族・藤咲舘安藤氏も吾を知らざるはなし。されば仮のいほりも、ふるさととなりて行丘地頭甲野七衛門、林崎百姓老婆やよらより毎日に頂く布施にも念佛の種は芽生えたりとぞ合掌し、夫れ人の心を変ぜむは細く長くして切れず、ねんごろなるを先とす。今更に源空殿の言を忘れまず。
不請の念佛を亡き師に答ふるとはなきにも申してやみぬ。今日は弥生の下旬二十七日、巌鬼山の峰は白雪金色に朝暁しける。

建保三年、北中野庵にてしるす
金光房圓證

露枯抄

生々流轉の人生少かに五十年。
知らず生れ、死ぬる人の生涯は流れのよどみに浮ぶ水のあわにぞ似たりける。
老骨の消えがたに志望し、九帖の御疏を奉じてみちのくに旅して思ひ駐まらず、未だ山野無路のちぎりあり。草木仮寝の宿りを常とす。弥陀の本領を北夷に寄せて幾歳を過ごし、思ひば漂泊の旅に生涯をうかべ、みちのくにたそがれを移して思ひやまず。念佛を布し、むつまじきかぎりはつどひども、多くはまめならず。みづから休みてひとり念じて、みづからを養ふばかりなり。

仮の庵りも軒朽ち、土居また苔むせるほどに東日流を離れ難し。冬は雪を踏み、夏は草を踏みわけてこの身のありさま乞食なり。労に過ぎし骨肉は我が心と伴はず、吐血病に床しては死出の旅路に出づる日近きを覚る。ひとへに風の前のちりに同じく、山ほととぎすの一聲にも物淋しく、今宵もしらみのせせる床に眠るなり。

建保四年八月二日 金光