東日流無明録

追はれ身の
  都落人
   住みよかし
 東日流の國に
  安東ありせば

古歌に唱はる如く東日流に土着せる落武者・流入脱罪科者・僧侶等様々乍らも安住し、衣食住の智惠を遺し、亦蝦夷の血に和人の混血加はる程に東日流の領土、安東の勢亦强けく政の議、民の意に叶うて威勢は益々强けきに至る。抑々安東氏をして大ならしめたるは修験宗なり。

蝦夷が身も救はる道の法しるべ中山峯に護摩を修めて大寳辛丑天に役小角仙人が此の地に流着して遺したる修験宗の古事傳継に依る東日流ならではなき修験宗の信心や强く、安東髙星氏の代に至りては東日流内外の六郡に三十三社十八寺の法場を築棟し、山伏・僧侶・太夫の千人を越ゆる大法場となりぬ。以来信徒も是に崇拝を断ぜず、神佛の信心深きいや深く茲に東日流三大法場ぞ今尚以て法灯絶ゆるなし。先ずは内郡に阿闍羅大圓寺、外郡に十三山王坊阿雲寺、飯積大坊大光院。是安東氏が興したる修験宗の寺院なり。

是を物語る祭事として俗人に傳はるは行来川の灯人形流しあり。由来は津刈丸、坂上田村麻呂に討死し亡霊、田村麻呂を悩ましめその供養に依ると傳はりぬ。世人是を禰武太流しと稱しける。亦東日流の民は山登崇拝を行ぜしも、修験宗の傳継なり。七日七夜の水行して身を清め、明けの前に山頂に祭らる祠に達し、明けくる旭日を拝す。

古世は阿闍羅山・正中山・巌鬼山等に登り狼火を相先んずる習しぞありしも、今はなし。亦東日流寺社の行祭に盛んなるは、鬼澤村鬼神社のにんにく祭。是は役小角仙人の從者前鬼、後鬼が流疫を退散せしめたる由来に依るものなり。茲に東日流修験……

(※以下断裂)