流検非違使庁覚
文治五年、鎌倉御所源頼朝公の奥州平征の後に、東日流國司として宇佐美實政を任じて東日流に赴かしむ。依て宇佐美氏は東日流平賀郡の地に蝦夷検非違使庁の舘を築き東日流執政を宣布に及ぶや、東日流六郡の大地に大樹の如く君臨せる安倍頼時の後胤・安東髙星氏の子孫ら强家なる威勢を根張り、國司の宣令何事の功も奏せず、宇佐美氏の及ぶ所なし。亦、安東氏の臣中に鎭守府將軍・藤原泰衡公の遺臣あり、源九郎判官の遺臣ありて何れも幕府への恨讐やるかたなきつわもの達者なれば、尚更に恨怒を招き建久元年五月、泰衡の遺臣・大河兼任は安東氏の先陣を駆して平賀に夜討し、宇佐美實政を斬首せり。大河兼任は此の舘跡に砦を築き度々北赴せる幕軍を制し、依て幕府は東日流平征の將として曽我廣忠を任じて赴かしめたり。
承久元年六月、曽我氏は六萬の兵馬を從卒して平賀砦の大河兼任を討取り一挙に藤崎の巨城を攻めたるも、流石安東一族の勢威强く平賀川の会戦に曽我の軍勢は大敗して退陣し、互に虎視眈々として攻防幾歳月を経し耳。曽我氏は東日流平征ならず、羽州に駆逐のやむなき終りける。建保五年、北條義時は陸奥守に任ぜられ和議を以て安東氏を訪□□請ふたるに、浅瀬石河畔に於て議談し安東氏も是の議に應じたり。
その條に曰く、
東日流六郡領定之事
- 東日流内三郡、是卽平賀郡・鼻和郡・田舎郡之三郡□國司之領相定、是稱鎌倉役。
- 東日流外三郡、是卽馬之郡・江流間郡・奥法郡為安東氏領、是稱京師役。
- 右領定異儀無是御□仕候間、安東一族子々孫々代々補陸奥守・京師蝦夷司・東日流検非違使庁之任。
右領分之議相成候事如件。
建保五年六月二日
國司義時
安東氏は臣と謀りて是を認承しけるも、幕府□失政の兆は建武の皇政を以て解役と相成り、足利氏の反朝に依て再度び幕府の摂政と相成りせば朝臣落武者、安東氏の領下に安住を求めて召抱らる多し。北畠顯家鎭守府將軍後裔の北畠顯邦は奥法郡行丘に舘を築きて安東氏の領を削駐し、更に江流間郡飯積に萬里小路中納言藤房公の後裔朝日景房は髙楯城を築きて益々安東氏の削領と相成り□かつての强家兵馬も行丘城及び髙楯城への士官に去りて、白鳥舘藤崎の地は寄手来らば健固たるはなく、折しも應永十八年浅瀬石川の水少なき七月、南部守行は陸奥守に補せられて五萬餘騎を以て藤崎に攻入るも、難攻不落たる白鳥舘は城影水に雄姿を映□時の城主安東教季は降らず、應永三十一年に渡る攻防戦の果に自ら舘に火を放つて行丘城北畠顯邦の領内に脱しければ、南部守行是を追討ならずその軍勢を十三□□領福島城主安東盛季に向はしめ、嘉吉三年十二月是を落城せしめたり。
然るに安東盛季は山道を南に脱し飯積髙楯城朝日顯房の城内へ入りて無事たるに、南部守行は是亦追討ならず、遂に朝臣門閥髙き行丘城及び髙楯城の勢威も省りみず弓箭を放つれば、時あたかも長慶帝の御從使行丘城に御法事□□なりせば朝敵□□□□南部守行討伐令を下しけるに、行丘・飯積の南北合勢軍に加はる安東勢一挙に南部守行を降し、合浦に於て討首し、残る残黨を石川に幽閉せり。時に戦功の朝臣及び南部氏に反きたる豪氏を賞でて、北畠顯邦自ら行丘城に招じ左の如く領職權を叶へたり。
定之事
- 大浦光信殿
- 補鼻和郡地頭
叶、種里城 - 堤弾正光康殿
- 補横内地頭
叶、稲城 - 奥瀬多左衛門殿
- 補外濱地頭
叶、油川城 - 安東教季嫡男、安東義景殿
- 補奥法郡江流間郡
馬之郡・田舎郡・平賀郡・鼻和郡之地頭司
叶、藤崎城 - 安東盛季殿
- 松前國司及補、十三港船検非違使
叶、福島城 - 朝日顯房殿
- 任東日流國司行丘城補佐役、補夷司検非違使庁判官
叶、飯積領髙楯城
右以奥州東日流平安長久相務可事如件
文安三年四月
國司北畠顯邦
かかる配領任役も天下麻の如く諸國に戦□を兆し、文明十二年天眞名井宮皇親王御自ら足利討幕の官軍を募りて東日流に下向せるも相成らず。行丘西光寺に崩じて以来、朝臣勢威は流星の如く消滅し、領役の定めも權者相成る□□に鼻和郡の貧領種里に黙たる大浦光信嫡男盛信は、石川城主南部髙盛に通じ兵馬を加へ密かに東日流平征を企て□□その誓として南部氏より久慈兵藏為信を養子となし、堀越に舘を築□□□住はしめたるも為信成人に及びて奇才なれば、大浦盛信の子息を平賀川に溺死させ、大浦城□□□。
元龜二年三月、血脈もなき南部髙信を奇襲して討取り、天正五年十月に近郷の豪族を降して□兵馬の勢を加へ、天正六年二月安東氏を羽州に奔追し、天領天内一族□□□刃下に伏し行丘城□一挙に天正六年七月討□落□北畠顯村□自刃□□東日流一圓は大浦為信の掌中にありしも、東日流飯積に君臨せる髙楯城主朝日左衛門尉行安は大浦為信に應戦□□降らず、天正十六年六月十六日落城□□大浦勢□兵馬多くの親臣を失ひ為信は髙楯城白旗の合戦に朝日家臣木村宗十郎の槍にかかり九死に一生を得たるあり。
茲に東日流平征は大浦為信に依りて相成りぬ。永代に渡る検非違使庁の治政は終り、藩政の幕下何日か崩ずるを念じて筆を止むなり。
寛文二年
安東氏累系
秋田平内
追而
此の書は史實眞相なるに依って藩役の眼に讀るあらば入牢の科ある可きに、他見あるべからず。