髙楯城図、他

高楯城図


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築城師 物部世阿弥

永録二年乃至天文元年、旧城改築成棟
味噌倉、米倉、藥草倉、精米倉

南舘
馬舎、干草舎、馬具舎、兵舎
西舘
武具倉、飯場、兵舎
東舘
藤原氏代々、天眞名井殿、天神地祇、番舎、御物倉、兵舎
本舘
舞殿、向間、下閣、二階閣
狐鼻砦
武具、馬具、兵舎、馬舎、干草舎
外見盛砦
兵舎、馬舎、飛道具庫、馬舎、米倉、干草舎

髙楯天誅党報復


巌鬼山

元禄元年一月
江羅五兵衛

告ぐ
慶長元年より飯積村組二十七ヶ村の巌鬼山登山者の持可く長杖及び一尺以上の棒持物を御佐太あるまで身に付く不可。

大浦奉行

右の告示は度々大浦武士飯積高楯城残党天誅組に殺害を受くに依りて布令さる。

天誅党始末


羽州飯詰村、高楯明神

元禄十年八月一日 江良任卫衛覚

寛永元年七月十七日、高楯城殘党天誅組を捕ふべく代官を置くに相成り、高楯城元家臣皆、羽州に落ち忍ぶ。移住の由、羽州佐竹公歎招し、土地を與へたり。一族はこの地を飯詰村と稱して永住せり。