東日流淸靈流灯之由来

津刈丸梟首像、石塔山大光院安置、拝日十年一度七月七より十三日間。
東日流淸靈流灯之由来
覚
抑々東日流淸靈灯流しの由来は諸説の傳多しとも、正傳なる歴史の根源は奥州荒吐王の津刈丸、またの名を阿氐利爲と曰ふ王將なる怨靈を供養せる淸靈灯流しに創まれる行事也。
奥州は日髙見國と稱し、太古より荒吐神を祀りたる五王の治しめせる王國なるも、倭に於ては豊肥なる國土を掠むとして奥州に軍を侵犯せしは、倭王の仁徳王の五十五年にして、その賊將を上毛野田道と曰ふなり。而れども荒吐王安東丸王、是れに應戰して敗りしが、斉明王の倭王卽位元年五月、阿倍引田臣比羅夫は兵船百八十艘を以て奥州西海濱辺を掠め、東日流までも侵犯せむとせしにや、荒吐王馬武王に陸踏み一歩も叶はず。二度の戰にも撃返へされしかば暫く奥州泰平たりしも、寳龜の頃より倭王また奥州を倭領に化せむとせしにや、荒吐王の惠比須王・伊治砦丸王に敗し去りしかば、延暦十年乃至二十年に渡りて侵犯せり。
賊將は大伴弟麻呂・百済俊哲・丹治比濱成・坂上田村麻呂・巨勢野足らなり。奥州にては髙丸王・阿黒丸王・大墓公王・阿氐利為王・盤具母禮王の五王ら是れに應戦す。時に阿氐利為のみ討死し、首には八寸釘を打て梟首とせしにや、倭軍その時折病疫流行す。追日にして敵陣なる多賀城に屍の葬穴群を築きければ、是ぞ荒吐族の祟りとぞ、阿氐利為王を埋めたる跡地に荒吐神社とて多賀城外に建立しけるも、病疫治まらず茲に阿氐利為王の怨靈を鎭むる淸靈灯流しを彼の討死せる膽澤の河に流しけるより惡疫治まりぬ。
爾来是れを念佛陀流と號し、現世に傳はりぬ。東日流に遺りきは阿部厨川太夫の前九年の役に敗れたる後、息胤なる安東髙星丸が落着以来、平河に行ぜられしを今は東日流のみに傳はりき。夏夜七月の行事なりき。
永録元年七月七日
藤井伊勢花押
東日流大光院覚書

大寳辛丑天五月六日、修験宗御祖役小角・唐僧小摩阿闍梨・從者十七人行者、東日流飯積漂着。茲修験宗弘布奉、以来大光院世代百八十六世渡崇拝給。三寳山大光院主尊金剛不壊摩訶如来金剛藏王權現右役小角御自作之等身像也。役小角仙人、田村皇子之胤也。倭國葛城上郡茅原之庄、舒明帝之六年一月一日出産。
寛治戊辰年十二月十七日
石塔山大光院小角堂住明覚
憤涙之閉山

神佛の勤行一千年、茲に法灯絶ゆ。
大政の執制は修験宗を邪宗と察し候か、否神佛の試練に候か、否末法の兆しに候か、實に阿然なり。然るに修験宗の稱名は絶するとも、行法は信徒に遺ると信じ、無窮と信じて畢んぬ。
明治十八年十月
法瑞
法灯暗滅

修験宗は明治十八年十二月十一日を以て改宗となり、法場は神社に屬され餘多の信徒是に迷ふ。
太政官は國令を以て是を執制するも、必ず國難を招く兆しとなり、修験宗再興の日、末世五十年にして至るを餘言して是書の證となす。
旧大光院住 法瑞房