石塔山大山祇覚


寛文二年十月十二日
神職和田壹岐守吉次

鎭社大要


夫れ奥州津輕奥法郡中山坪毛山に鎭坐まします石塔山大山祇神社の由来を尋ぬれば大寳辛丑天、倭の葛城山仙人役小角開山之奉り、爾外三郡の領主安東一族是を庇護仕りて久しく地民の信を得たり。抑々石塔山は大古より遺れる先祖民の崇拝神にして、是を荒羽吐の大神と稱號奉り給ふ。亦是に添ひ奉り大山祇神を鎭め給ふ。卽ち右如件して傳ふ也。

寛文二年十月吉日
和田壹岐守吉次

石塔山大山祇神社氏子

神職和田壹岐守吉次
飯積邑北屋名兵衛
飯積組總代
忌来市邑今長右衛門
金木組總代
袖川邑奥瀬善次郎
後㵼組總代
相川邑奈良四郎左衛門
中里組總代

右總代頭、和田長三郎權七
(寛文二年現在之御役也)

石塔山大山祇神社しるべ


ハゲ、瀧、白虎道、石化カムイ、オテナカムイ塔、荒行岩、□子道、蛙、神社、神池、古住跡、カムイ丘、カムイ墳、岩戸、風穴、

寛文二年地情
吉次筆


朝日田、狐鼻、狐野、天神宮、城邸、稲荷宮、髙楯城、双□、川代、百旗八幡宮、□□、仲町、飯積邑、愛宕神社、法林寺、大泉寺、岩邑、長円寺、大日堂、影日川、大淵、神明宮、正行寺、石化邑、大坊、大光院、鎧留、朝日、天神川、白山、糠塚川、寺邸、西院、長坂、尼流、味僧澤邑、味僧澤、萢澤、御成、味僧盛、大宮澤、麻木、五荷役野、深澤、翁古邸、瀧、不動澤、股木、無澤、小田川、大典、石塔神社、石塔澤、坪毛澤、坪毛山、魔岳、馬神山、小角□

石塔山大山祇神社奥洞

覚 御靈相之秘文図


神職和田壹岐守吉次謹㝍

荒羽吐神像
御土焼造
御丈一尺三寸
木像名稱不詳
近年作
丈一尺
石化神像
御土焼造
御丈二尺三寸
大山祇神像
御石造
御丈十三尺
神石塔
御石造
御丈十二尺

右寛文二年六月見取書仕候也。

石塔山大山祇神社由来之事

抑々吾が郷土の津輕中山に於ては南に梵珠山・笹山・魔岳・馬神山・坪毛山・飛鳥山等の靈峯は太古、修験道場とて津輕三千坊の法場大光院の荒行修行場なり。なかんずく石塔山大山祇神社はその密行道場なりせば、金剛界・胎藏界の本地垂跡の本願に叶ふ山伏道場也。太古吾が津輕國は日髙見國東日流と曰ふ。國創の頃、津保化族とや土民ありて此の山に住むるも、荒羽吐族に侵領ありて降り、一族の神なる石化神を祀るは石塔大山祇神の鎭坐ませる創なりと世々に傳ふなり。

世降りて、大寳辛丑の元年六月、倭より東日流安東浦に漂着せし修験宗元祖役小角仙人、この山に入峯し火生三昧をこらし、茲に寂せりとも傳ふ。依て中山十三湊に續ける大葉檜の原生林は千古の歴脈を以て茂り、地民の衣食住の安養をなし、神なる山とぞ崇めらるなり。山を以て生々しその惠を護らむ人々ぞ心一にして林道を造り、山火を防ぎけるは氏子代々のつとめにして、神への信仰たかまりぬ。社殿境内は渓瀧を挟みて大岩石みな神なるものとせり。拝殿は二間半乃至三間半にて、籠堂は草屋を以て八方に建立し、金剛界の智賢・胎藏界なる神佛混合の崇拝を禮祀なせり。

荒羽吐之神は祖人を崇め、大山祇之神は山の幸を祈念せる。なにごとの神より尊しぞと天地を陰陽になし、天なる日輪ぞ父なる神と信じ、地なる山川を母なる大地として崇めたる基を以て不動なりと、此の山を神聖なる法場と定めたるは千古の昔より今に續きける石塔山大山祇神社の由来なりき。
右以て神社の由来如件。

寛文二年十二月十二日
吹旗宮住神職
和田壹岐守吉次花押

石塔山之事

神佛をして、物部氏・蘇我氏の闘爭の故因を起こさずと、茲に山岳に求道の眞理を求む聖多し。而るに世襲の習や常にして天下の泰平に至らず、遂には聖道の枯るる多くして、求道に親近せる悟者の少なきは、今世の情無し。抑々石塔山大山祇神社の創はさだかならざる遠きいにしえなれど、世襲にめげざる地民の信仰を絶えざるは、神なる靈験の深きに依れるなり。

吾が郷土の古代は今にして幻なれば、想考にして顯されず。茲に東日流語部の来録に尋ねて、茲に記置かむ。抑々東日流の創は阿曽辺族・津保化族の二族相住むるは人跡の創也。神なる崇拝はイシカカムイと稱さる陰陽の二神にて天なる日輪を父とし、大地を萬物蘇生の母なりと崇めたり。世降りて耶馬台國より移り来たる一統のもと、荒羽吐族を以て茲に荒羽吐之神とて創神されたり。爾来荒羽吐一族に依りて今に崇拝せり、と傳ふは語部の傳なり。

寛文二年十二月十二日
壹岐守吉次花押

右原本老朽に依りて、明治十年十二月十二日再書

和田長三郎

右之證

明治十年十二月十二日
和田長三郎再㝍仕
奥州津輕奥法郡飯積邑之住人