金光上人一代絵図
入寂三十五年忌日愢聖人御生涯
建長辛亥三年三月二十五日
東日流行丘西光寺住僧
西心坊謹書花押
獨明決定儀
佛道に乘ぜんに何ぞ功夫を費やさんや。志を挙し学を追得し智を尋ね悟に契うも、天命纔に趣せば形質は草露の如く活路を虧闕す。今人なんぞ逐の解に心頭を用うるものならんや。智愚利人鈍者、佛道に求趣せば平常なり。智を以て佛事を執するも亦悟に非ず、有為の染汚に屬す也。一紙を二に切りて二紙とし、更に切り四と為すも、細には無間にいり、大には方所を絶す。愚を以て佛道に求趣せば、佛の大乘を失う事無し。況んや智は混にして愚は潔なり。鏡にのぞんで眞を覩がごとし。豈に諸行支派の制多に暫くも趣く莫れ。
諸行は無常なり。心身は天命に安ぜよ。無常は憑み難し。光陰は停め難し。生命覚路は天命に安ずるの他に悟の諸行は無用なり。明の本地は心眼なり、暗の本地は夢想なり。一刻の身命も尊び、身命自から愛すべし。須らく明は清濁の句を分つ自心力に叶い、暗は夢想幻覚の他信力に心を殊にし、焉んぞ趣向なし。矧や天竺の佛祖釋牟尼の偈に曰く、
諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅為樂。
是れ卽ち天命に安ずるの無上道也。
仁安丙戌天五月吉日
筑紫石垣山宇治觀音寺
律師精覚法印門中
當道現若丸花押
四苦諦證
此の證文に疑ひあるべからず。是の經を能く持たん者は久しからずして無量廣大の阿耨多羅三藐三菩提を得る也。よろしくよく保護すべし。光陰虚しく度ること莫れ。佛道に帰するは自他力を論ずる勿れ。自他力本願は佛の救済に以て一如也。原るに道本決定して疑ある事無けん。況んや是の經を受持する者は命終の時に臨んで心顚倒せず、錯乱せず、失念せず。身心諸々の苦痛なく快樂にして、禅定に入るが如く涅槃に入る事、正に釋迦牟尼佛の示したる如きなり。
佛大慈悲を衆生に蒙ぶらしては、老若男女同心にして佛を念ずる信仰を、生死一大事の知識と云ふ也。信心に念佛無くんば佛道を求むるも無益也。如何にしても念佛を能く信じて、終命の刻至れば迎ひに預り、淨土に昇天して無始の重障を滅除して、親しく二尊の摂取に救済奉るべし。一切衆生は無明の卵に處して虚空に飛ぶべきにしも、念佛大慈の本願に帰命の大功德無くして生るを得られず。念佛は無明の卵を碎きて娑婆の古巣を往生極樂の大虚に巣立つ無上の佛道と信じて救はるべし。
佛は西に没して二千年の弘通は末法の一刻に劣れしか。是れ偏に金光が智の賢こきに非ず、賢も愚も老も若きも男女を問はず念佛の信心に越えて優る諸行はなかりけり。信心は念佛を以て佛道の無上道なり。未を兆しては人師論師多く宗を脈して充満せども、念佛正法の心固ければ誘惑を用ゐじとなり、正法の風に塵となりて消滅す。諸行の教は星の如しと數を幻光すると雖ども本願なる日輪の光明に照されては幻光失ひて蹤跡も消滅するなり。
念佛の本願は日輪の如く大海の如し。濁水も海に海水となりては清淨となりて無窮の清淨を保つ如く淨心を起して本願に帰せよ。三界は安き事無し、猶ほ火宅の如し。衆苦は充満し、常に生老病死の憂患あり、熾然としてやまず四苦に没在せり。かるが故に佛の信心なければ淨土は毀れざるに而も衆は憂怖諸々の苦悩斯の如く充満し、諸々の罪障重なりて末法の兆を急激して迷ふなり。
念佛は智に依りて修するに非ず。唯一向に佛を念ずる他に何事の学も要せずして救済を受る法なり。易道此上もなきが故に、輕笑する者は佛罰立處に降りて狂乱する程に苦患を受く也。念佛をして往生ならずと疑ふべからず。諸誘の外教を断じて、永く本願に盡きしむべし。
念佛は佛に救ひを求むるの呼聲なり。譬へば水に溺る人ありて助を請ふるも救聲なくば助人は知らず、溺者は死す如きなり。十念は一念より救はる多しと信じて念じべし。娑婆は萬物生死の床なり。身は死して水土に帰り魂は何處ぞ寒暑四季に遷り、水は天より降りて海に停る。人の一生は地に生縁して生老病死の四苦に追はれて停る。生々流轉の生涯は労々と五十年、重けき荷を負うたるが如し。釋迦牟尼の偈に諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅為樂と末代に涅槃悟道を遺し、是天命に安ずるの悟と信じ、念佛を信ずるは佛の親き成道を得る大道通達の行持なり。
建久壬子天神無月十八日
法住寺殿沙門花押
金光房圓證阿闍梨
金光上人系譜

金光房圓證
父系
豊秋津師猿田彦命・木華開耶媛大山祇姫─火遠理命─日子波㶑武鵜茅草葺不合命─日子五瀬命(長髄彦二女倭國姫)─天津日大山祇命─稲豊彦─速風滄海彦─天忍髙千穗仙彦─媛鈴寧押彦─日本殖稲彦─天豊鞴彦─雲湧彦─彦太日日尊(開化天帝之御事)─伊番理命─八坂上彦─惠石耳津彦─息長宿祢─大津君宿祢─稚鷦彦─気仙地彦─幸傳部宿祢─大豊塚彦─允等彦─海幸彦─磐碎彦─亦挙鞆彦─神世野君宿祢─淳風彦─長谷部彦─長谷部宿祢尊(崇峻天帝之御事)─御賢部宿祢─筑仙彦─伊予彦─茅刈田彦─朝媛彦─繼明彦─鳴戸彦─天萬彦─日向彦─久度彦─葦足彦─君橘彦─由良彦─世戸彦─夢依彦─天理彦─鎌玉彦─浮水彦─譯奈彦─止戸彦─山媛彦─苑華彦─瑠蘇彦─大友彦─根子彦─猿田清通─猿田重遠─義景─信輝─輝實─義清─忠景─宗景─国光─義麿─影時─重忠─頼道─長義─元清─行次─秀重─義平─景平─賴景─基重─景忠─基成─義照─重光─光景─信義─忠長─賴基─元時─秀基─忠基─基景─長安寺國平─白龍丸(上人幼名)
母系
桓武天帝─葛原親王─高見王─高望王─國香王─平小路兼盛─平小路重高─信盛─清重─辰盛─中納言重忠─良子式部─白龍丸(上人幼名)
金光上人御生涯抄
筑後国松野郷八重州の庄に遣唐船検非違使庁判官長安寺国平を父として、久壽甲戌天正月元日辰が刻に上人誕生す。幼名白龍丸と號し、字名を日輪丸と稱せり。此の年の二月二十七日夜に筑前国當道及麿は密かに源義朝鎭西八郎の令に依りて平氏のゆかりある長安寺国平を侵領せり。戦運長安寺一族に利なく破れ、上人の母なる平小路良子の方は自決し、国平も白龍丸を道連れに自決せんとするを、重臣関重太夫に強く制められ舘を落ち忍び、筑後川にて重太夫は主に請うて僧侶に身を變じて白龍丸を養育せんが為に悲別せり。
重太夫は白龍丸を託され安住を求めて追手を脱し、虎穴なる石垣山に居して乳乞に放浪す。久しからずして追手の詮儀なく、重太夫は六月十三日に路立の告示を見て胸躍れり。恨敵・當道及麿は子の無きを憂て宇治山觀音寺に願行せるを認め、主一族の仇を討べくに忍ぶも、折惡けく雨となりて楠の下に寝かせし白龍丸は泣叫びて抜刀ならず、隠れたり。然して當日満願なる當道及麿は童の泣聲に胸躍りて、楠の方に白龍丸を見當て、是ぞ觀世音の授児なりと喜悦して連れ去れり。重太夫断腸の思いなるも詮なく折をして奪はんと見送れり。
久壽乙亥天正月元日、白龍丸は當道及麿の名附に依りて現若丸と名を號されたり。保元丙子天七月十一日、当道及麿は都に兵を進め源義朝に從って十一月、上皇の反軍源爲義・平忠正らを誅す。丁丑天、当道及麿は從三位下を賜り朝臣となる。戊寅天七月四日、及麿は伊豆に進み大嶋に鎭西八郎を訊ねて慰む。平治乙卯天七月二十日、現若丸は河内權藏に習ひ唐学を学ぶも幼少にして秀才たり。十一月四日、及麿は淀川にて長田忠政に敗れ、海路築紫に退く。永暦庚辰天五月十二日、現若丸は石垣山専修院觀音寺住僧・精覚律師に学ぶ。應保辛巳天、現若丸は捨児と聞きて惡童となる。壬午天九月、現若丸は觀音像を斬り関十太夫に戒めらる。長寛癸未天九月、現若丸は武芸に専念す。
甲申天十二月、現若丸は佛道に学ぶ。永萬乙酉天五月三日、養父及麿と試合て文武二道に勝る。仁安丙戌天六月四日、現若丸は修得傳及び八宗一如之大要を自著せり。丁亥天十二月、及麿は佐賀彦十郎を軍師として日向の雲湧谷に長安寺國平一族を討伐に向はして敗れり。戊子天三月十八日、長安寺国平は豊前国阿部景有と軍を合せ當道及麿を攻む。時に現若丸は初陣として應戦に出づ。関重太夫はこの戦を心痛し、和交の仲介を両軍に勤むるも、当道軍に捕はれて入獄せり。
四月十七日、現若丸は實父と知らず国平と戦ふて敗れ、國平もまた實子と知らず現若丸を追ふて組伏し斬首せんとして兜を奪いば、良子の方に似たる面顔に我が子と悟り、呆然たる一寸の間に現若丸國平の肩深く斬倒す。十八日朝、関重太夫より眞相を聞きて現若丸大いに悲涙せり。現若丸は父母の墓を自ら建て、重太夫は共に供養す。喜應乙丑天一月十二日、関重太夫は緒方三郎に捕へられて極刑悲惨に殺さる。現若丸は是を知りて三郎を追ふも逃がれたり。庚寅天四月、養母方子の方は病に床し、現若丸三七・二十一日の願を觀音堂に祈するも六月三日に方子の方は現若丸を案じつゝ死せり。現若丸は心悩みて承安辛卯天二月十六日、養父及麿の赦を請ふて出家を志し、河内權蔵と共に京師に赴く。
(※以下断裂)